われらが日常で使用する言語は、宇宙や素粒子の世界を記述する手段にはもうならない。
ヒッグス粒子のマスコミの説明に益川敏英先生が「インチキ」といったようにね。
物理が思弁的に語られた時代はニュートンの時代をもって終わっている。
人文においてもデカルトは言語の数学的な記述法を模索した。
以来、現代哲学は抽象的で難解、読むが苦しいが、物理の先生は「わかるよ」と言った。
物理を記述する言語は数学だ。
量子もつれの±は、たとえば半分に割ったゴムボールに例えられるかもしれない。
プラス方向にスピンするボールがそのまま裏返ったら?ということ。
しかし裏返ったり戻ったりする球状の「場」の方がもうちょっと近い。
球を裏返すのは数学的には簡単だが、イメージすることはできない。
「裏返しの球」じつは、我らの宇宙がそうだ。
130億年前の銀河が北天で発見された。
しかしそこの向こう側に晴れる前の宇宙があるというのはおかしい。
時間は空間と置換できるが、場所とは置き換えられないから。
世界の始まりが遠方にあるなら、それは全天の彼方にあるはずだ。
バックグラウンド輻射はビッグバンの原初の轟が宇宙の拡大とともに
電磁波レベルに引き伸ばされたものだそうだが、
放送の終わったTV画面にノイズとして全天から受信されている。
一点からはじまったはずの宇宙が、人間の知覚では全天にあまねいている。
目に見えている夜空でさえ、その果てを見ようとしたとたんにこの有様。
素粒子論や相対論の特異点(矛盾?)を言葉で例えるなんて、おおよそ無理なはなしだなあ。
返信する